第35話 徳川家康(その4)|コラム 先人に学ぶ

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蔵人会計事務所HOME > コラム 先人に学ぶ > 第35話 徳川家康(その4)

第35話 徳川家康(その4)

1.家康と鳥居元忠の主従関係

関ヶ原の戦いは、上杉軍を成敗するために豊臣恩顧の大名を引き連れて家康が東北に向かうところからスタートします。この時、石田三成が上方で挙兵することを見抜いていた家康は、伏見城は落ちるものと覚悟し、鳥居元忠に城を託します。その時の家康と元忠のエピソードを紹介します。

(家康と元忠のエピソード)

家康は上杉景勝征伐のため6月16日に大坂を出陣し、まずは伏見へ向かいました。同夜に伏見に到着し、翌17日、家康は伏見城の守備を、本丸は元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・家忠へそれぞれ命じ、鉄炮二百挺を預けます。
その際、家康は「四人とも、今回の会津征伐への出陣が叶わず、こうして留守居を務めることを残念に思うではないぞ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なく皆には苦労を掛ける」と言ったところ、元忠はこう返答したと言われています。
「私はそうは思いません。会津征伐は重要事、家人一騎一人でも多く連れて行かれるべきです。京大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正で事足ります。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦は出来ないでしょう。となると、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」
この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせました。元忠が家康に仕えた頃、家康がまだ今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったろうと思われます。主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていきました。やがて元忠は「もう寝られませ」と言って退出しようとしましたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じます。小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康は泣きました。
翌6月18日午前7時頃、家康は元忠ら四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣します。その後の詳細は省きますが、元忠の予見した通り三成らは挙兵、真っ先に伏見城がその標的となったのでした。
7月15日(『家忠日記』では18日)、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、四万の大軍で城を包囲します。これに対して元忠は、自らは本丸を守り、二の丸には内藤家長・元忠と佐野綱正を、三の丸には松平家忠・近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀(甲賀とも)作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配し、徹底抗戦の構えを取りました。
19日から西軍の猛攻が始まります。21日には外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されましたが、元忠らは頑強に抗戦して10日余り持ちこたえます。しかし30日、攻囲陣の中にいて甲賀衆を抱えていた近江水口城主長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と申し送らせました。藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じ、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得ました。そして、これがその通り実行されたのです。
8月1日未明、伏見城の一角に火の手が上がり、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊し、西軍を引き入れます。もはやどうにもなりません。松平家忠・近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の元忠は奮戦して三度敵を追い返しましたが、もう彼の周りにはわずか十余人しか残ってはません。そして、遂に元忠の最期の時が来たのです。
(http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/fushimi.htmlより引用)

2.鳥居元忠の行動の効果とその後

鳥居元忠は、少ない兵力で西軍の主力部隊4万人を15日間も足止めしました。また、鳥居元忠の決死の攻防が、関西における東軍勢力の反西軍の足がかりとなり、各地の制圧を優先した西軍の関ヶ原の動因兵力を削減させました。先月ご紹介した立花宗茂等は関ヶ原に着くことなく敗北したのも鳥居元忠等の反西軍勢力の存在があったことによります。
元忠が討ち死した後、家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績として子孫に関東に4万から5万石高の城を与えます。この元忠の子孫、後に山形藩24万石の大名に昇格しています。

3.鳥居元忠が伝える家康の成功の本質

関ヶ原の戦いの東西力軍の勢力を後に見た戦術家は、口をそろえて西軍の勝利と言いました。それ程、石田三成は天才だったのです(独断と偏見で天才と言い切らせてください)。
しかしその天才を凌ぐ家康の存在が、鳥居元忠のエピソードに凝縮されていると思えてなりません。家康の存在は、?家康が立てば絶対に勝つという信頼感、? 家康に忠義を尽くせば、必ず報いてくれるという安心感の2つによって構成されています。これが家康の成功の本質です。
この2つの構図は現代も同様です。伸びる組織は、?必ず利益成長があること(利益が伸びること)、そして?働きを全うに評価してくれることの2つが大事です。
ここで考えなければならないのは、「社員が頑張るから利益が伸びる。結果、社員に還元できる。利益が伸びないのは社員が頑張らないからだ!」と言う社長の意見もごもっともですが、「仕事の勘所に関してマニュアルも無ければ教えてもくれないのに出来るわけないでしょ」という社員の意見ももっともです。
両者話し合って、儲ける仕組みが作れれば、お互いにハッピーな強い組織が出来る筈です。家康に習って各々の江戸幕府を作りましょう。

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