第8話 長宗我部盛親に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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第8話 長宗我部盛親に学ぶ

1.長宗我部盛親とは

四国の土佐を領し(一時は四国全域を支配下にし)ていた長宗我元親の四男で幼名を千熊丸といいました。1586年に長兄・信親が豊臣秀吉の島津征伐の最中(戸次川の戦い)に戦死すると長宗我部家の後継者となりました(信親が戦死した時点で元親には三人の息子がいましたが、兄二人を差し置いてこの時点で後継者に指名されています)。偉大な父、元親の在世中は、軍事的、政治的行動は全て父の決断に基づいており、小田原征伐・朝鮮出兵へ父と共に従軍しました。

2.長宗我部家の凋落

1599年5月19日に父・元親が伏見で亡くなり、正式に土佐22万石を継ぎましたが、この時、既に関ヶ原の前哨戦が開始されていました。しかし盛親は乗り遅れてしまいます。翌年、関ヶ原の役が起こると、盛親は東軍につこうとしますが、家康への使者が近江で西軍に阻まれ、西軍に味方する他なくなってしまいます。  仕方なく長宗我部軍は6600ほどの兵を率いて、7月に大坂城に入城。各城を落とし9月初めに美濃に到着。そして同月15日朝、関ヶ原の合戦に参戦します。だが、徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には加わることが出来ないまま、敗戦を向かえます。 なんとか土佐に逃げ帰った盛親は、親しい関係であった井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしますが、関ヶ原の戦勝に伴う領地の分配を行わなければならない家康は、何とか領地を召し上げる方法を検討します。丁度そのとき盛親の兄・津野親忠が家老の専断によって殺害されたことを口実に領土没収とされ、それ以後寺子屋の師匠として生きていくことになります。  盛親が生まれたときに父、元親が土佐を統一。彼が10歳の時に四国を統一。そしてすぐに秀吉に攻められ土佐一国に逆戻り。そして家督を継いだ翌年、寺子屋の師匠になるという転落人生となってしまいました。

その後の長宗我部盛親

因みにその後の盛親は家康が豊臣家を滅亡させる大阪の冬の陣・夏の陣に参戦し、最後の戦いとなる夏の陣では、藤堂高虎軍と戦闘に突入し藤堂軍を壊滅寸前にまで追いこみます。ですが、敵に援軍が駆け付けたために撤退を余儀なくされました。 その後、大坂城の守りについていたが、敗北が決定的になると前日の言葉通り再起を図って逃亡しました。だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられます。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられました。同月15日、六条河原で斬首されます。享年41歳。

3.失敗の本質

関ヶ原の後、寺子屋の師匠となった盛親は、関ヶ原で精一杯戦わなかった自分を悔いたと伝えられています。この長宗我部盛親の失敗の本質は何であったのでしょうか?

(1)初志を貫徹しなかった。

長宗我部盛親の最初の意思決定は、東軍の家康に付くというものでした。この時、家康側の諸将の力量、西軍に所属する武将の顔ぶれを冷静に比較して決定したと伝えられています。ところが、その旨を使者が伝えられずに土佐に戻ってくると、他の方策は検討せずに西軍に付くと決定を翻しています。  ここが失敗の1つ目の本質ではないでしょうか。

(2)意思決定が徹底されていなかった。

2つ目の問題は、関ヶ原において一戦も出来ずに敗北をしてしまったことです。一緒に陣取っていた毛利軍が動かなかったという状況の中、自ら出陣すれば、腹背に敵を背負う可能性は存在しました。だが、毛利と行動を共にしているという安心感があり、動かなかったのであるから責任も無しと考えていた感があったのも事実です。この時点で家康とは全くの交流が無い事を考えると、行動が不可解です。

人生には就職、転職等の転機が何度か訪れます。その時に大事なのは意思決定を徹底することです。出来る限り徹底的に頑張ることが成功につながるのではないでしょうか?

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