第26話 トーマス・ブレーク・グラバー|コラム 先人に学ぶ

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蔵人会計事務所HOME > コラム 先人に学ぶ > 第26話 トーマス・ブレーク・グラバー

第26話 トーマス・ブレーク・グラバー

1.グラバーとは

トーマス・ブレーク・グラバーは1838年12月13日、スコットランドに生まれ、19歳のときに上海にやってきて貿易のビジネス術を身につけ、長崎が開港した安政6年(1859年)に来日し、その2年後、グラバー商会を設立した商人です。
グラバーが長崎にやってきたのは、安政の大獄(井伊直弼が尊攘派に対しておこなった弾圧事件、安政5年に起こる)の翌年であり、尊王攘夷が外国人排斥を訴えている時代背景での来日でした。
長崎には出島が置かれ、長い間、幕府はオランダ、中国とのみ貿易を行っていましたが、1854年(安政1)の日米和親条約依頼、外国列強との不平等条約を次々に締結し、当時、長崎には150人の外国人が在住していました。(その半数をイギリス人が占めていました)
長崎に来たグラバーは、グラバー商会を開設し、東アジア最大の貿易商社、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店に務めます。結果、船舶や武器の調達経路を握り、諸藩へ販売を行います。

2.グラバーの意思決定

マセソン商会の強力な資金力を背景に、幕末期にグラバー商会が売った船は20隻。長崎に輸入されたすべての船の3割を占めました。幕府は尊皇攘夷の方針の下、フランスと手を結び軍隊の近代化へと歩んでいった関係で、グラバー商会の取引の相手は薩摩藩や長州藩など幕府に対立する西南諸藩でした。武器の販売だけでなく、自らの危険を顧みず、伊藤博文(当時20代前半)、井上馨(当時20代後半)らの討幕派をイギリスに留学させています。
このグラバーは、近年の研究で坂本竜馬との接点も見出されています。幕府から狙われているグラバーが、自らの黒子として幕府の要人、勝海舟と親しい坂本竜馬を取り込み、亀山社中(1865年設立)を設立させたという内容です。この時期、実際に薩摩や長州に船や兵器を販売したのは亀山社中であり、事実の経過を考えるとまんざら嘘ではないかも知れません。これが事実であると仮定すると、薩長同盟は坂本竜馬のオリジナルではなく、グラバーの発案かもしれません(これが事実であったとしても実際に交渉をした坂本竜馬の功績が無くなることはありませんが‥)。
グラバーの商売は信用を供与して行っていましたので、販売先が勝利を収めることは大事なことです。時代の結果は皆のご存知のとおり、薩長同盟が幕府を倒し、薩長政権が明治政府として成立するのです。グラバー商会の賭けも、討幕が実現することで成就します。

3.成功の本質

グラバーの構想である討幕は、イギリスの対日本政策と適合します。時の流れに身を任せて成功したように見えますが、ここに成功の本質が存在します。
グラバーの成功の本質は、グラバーがそうさせたのか、イギリスの政策にグラバーが乗ったのか、いずれにしても組織目標と個人目標のベクトルがきちんと合った(イギリス国家の目標は薩長支援、自分の目標は薩長への武器販売)ことに起因します。
ナポレオン3世の在位末期のフランスが支援する幕府とイギリスが支援する薩長は、組織の上でも、支援状況においても実力の差が歴然としていました。イギリスが支援を決定した段階で薩長が勝つのは必然であったのでしょう。
仕事の上で活躍をするためには、様々な人間関係を調整していかなければなりません。その調整を行う上で大事なものは組織目標と個人目標のすりあわせであることを考えさせられるエピソードです。

4.グラバーのその後

討幕が実現したことで債権の回収を図るグラバー商会は、明治新政府の成立後、藩の解体(廃藩置県)による債権の未回収、武器の販売の低迷により倒産します。債権回収は商売の基本、時代の大きな変革期に商売を行うことの難しさを考えさせられます。

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