第16話 武田勝頼に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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第16話 武田勝頼に学ぶ

1.武田勝頼の生涯

武田信玄の四男として1546年に生まれました。武田信玄が上洛の途で志半ばにして死去した後、当主となる。1575年、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗退し、次第に家臣団の内部崩壊が始まる。1582年織田信長・徳川家康らの攻撃により最後は田野(山梨県大和村)で嫡男信勝・夫人ほか40名あまりの家臣とともに自害、武田家は滅亡した。 享年三十七歳。

2.長篠の戦いと武田勝頼の判断

長篠城は徳川最前線の城であり、この城を武田勝頼が攻め、救済の為に織田・徳川連合軍が対峙したことにより戦いが始まります。最前線では武田と徳川の諸城が入り組んでいます。その徳川方の最前線陣地を急襲した武田軍は、織田・徳川軍を引っ張り出します。野戦が得意な武田軍は15,000人、織田・徳川連合軍は38,000人の陣容です。 ここで信長は意外な行動に出ます。通常であれば、長篠城の包囲軍を蹴散らし解放しなければ、長篠城はただの見殺しになってしまいます。しかし信長は、長篠城を包囲している武田軍を攻撃せず、それどころか設楽原の弾正山に陣地を構築しだしました。こうなると武田軍の方が動揺します。この陣地の先には武田方の諸城があり、今度は武田軍が味方の諸城を救済しなければならなくなったのです。ここに寄せ手武田軍による長篠の戦いが繰り広げられました。 この後は織田軍の高名な鉄砲の三段撃ちが功を奏し、織田・徳川連合軍が戦いを制します。

長篠城を攻める武田軍の陣容

3.武田勝頼の失敗の本質

少ない人数で、陣地を作っている相手に討って出れば負けることは子供でもわかる理屈です。ところが武田勝頼はこの愚を冒してしまいます。 「最前線の城を見殺しにしては面目が立たない(自分に信任が集まらなければ大軍団を結成できない)。」この戦国時代の理屈がそうさせた戦いでした。 名将武田信玄の後継者としてのプレッシャーは大きかったでしょうし、皆の信任を集めるために父信玄を越えなければ‥という意識も強くあった事だと思います。しかしこの勝頼が打った博打はあまりにも大きなものでした。 博打を科学的に解明するぐらいの用心深さが無ければ名将とは言えず、名将は必ず博打を避けました。これは過去も現在も同様です。

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