第17話 梶原景時に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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第17話 梶原景時に学ぶ

1.梶原景時の人生

梶原氏3代目当主で鎌倉幕府初期の有力御家人。家系は桓武平氏の流れで、頼朝の曽祖父 八幡太郎義家の家人として後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の末裔。大庭氏の支流にあたる。正式な名乗りは平景時。通称は平三。官位は刑部丞。侍所所司、厩別当となる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。 1180年(治承4年)の石橋山の戦いで平氏に属し、大庭景親のもとで源頼朝と戦うが、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。1183年(寿永2年)、頼朝の命により、双六に興じていた最中に上総広常を謀殺。 1184年(元暦元年)には源義仲追討軍に従軍。平家追討に参加、その功で播磨、美作守護職を与えられる。 1185年(元暦二年)壇ノ浦の合戦で勝利を収めた義経の行状を頼朝に讒訴する。結果、義経は頼朝によって追討される運命にいたる。

(報告内容)

何かと高慢なので、誰も心から従うものはいない。
戦の手柄は自分一人のもののように考える。
頼朝より法皇を重んじる。
24名の御家人が、義経の真似をして官位を受けた。
西国は義経が頂戴すると言っている。
もし私が正すよう忠告すれば、私は処罰される雰囲気。
1193年(建久4年)には頼朝の命を受け、伊豆の修善寺に流された源範頼を攻め、謀殺。

頼朝の死後は、源頼家を補佐する。しかし頼家に政敵である結城朝光を讒訴したことから、三浦氏・和田氏らと対立。1199年(正治元年)諸将66名の連判状が頼家に提出され、景時は頼家により追放される。 景時と朝光はともに頼朝の側近として時には他の御家人に恨まれるような職務に当たることも多かった。だが、頼朝の死後も頼家の元で権力を振るう景時とは反対に幕政の一線から遠ざかる姿勢を見せた朝光に対する他の御家人の同情が集まって、「反景時」の空気が結集したのである。

1200年(正治2年)甲斐源氏の武田有義を頼家に代えて将軍に擁立しようと所領の相模国一ノ宮より上洛の途中、駿河国清見関にて頼家の命を受けた幕府軍と戦闘。同国狐崎にて嫡子景季と共に討たれる。

2.成功体験に溺れ、目的を見失った梶原景時

梶原景時を考える時、讒訴と謀殺をしていれば、仕舞いには自らに讒訴と謀殺の対象となってしまうという、所謂「因果応報」を考える方が多いと思います。 今回の先人に学ぶでは、異なる角度から考えて見ます。

(1) 源頼朝と梶原景時

梶原景時は、1180年に頼朝の命を助けてから頼朝存命中の20年弱の間、側近中の側近として君臨します。源頼朝は心配性で疑り深い性格を持っており、「疑わしければ罰する」大将でした。その大将の性格に合わせたか、偶然に一致したかは定かではありませんが、マッチしました。讒訴と謀殺の裏には必ず梶原景時が存在する状態となっていきます。

(2) 頼家と梶原景時

ところが、頼朝死後の鎌倉幕府は、頼家に合わせるべく努力をしなければなりませんでした。ところが梶原景時は態度を改めることなく、讒訴によって政敵を葬ろうと画策します。これが命取りとなり、時代に出た1180年から20年後の1200年に息子と共に討たれてしまいました。

3.失敗の本質

梶原景時の対応に我々は学ばねばなりません(歴史的に梶原景時のような事例は多いもので、織田信秀⇒信長(佐久間信盛、林通勝の失脚)や徳川家康⇒秀忠(本田正純の失脚)でも同様の事態が生じています)。  社長が交代するとき、目指している道や、歩む方法が少なからず変化します。その時に「先代はこうであった」という理由で先代のやり方を最善であると定義すれば、後継者は苦しい思いをしなければなりません。歴史は繰り返します。

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