第23回 石田三成に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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蔵人会計事務所HOME > コラム 先人に学ぶ > 第23回 石田三成に学ぶ

第23回 石田三成に学ぶ

1.石田三成の評価

徳川光圀の言行録ともいうべき「桃源遺事」には三成評として「石田治部少輔三成は、にくからざるもの也。人それぞれその主の為にすと云ふ義にて、心を立て事を行ふもの、かたきなりとてにくむべからず。君臣ともによく心得べきことなり。」
(訳:石田三成は非常に立派な人物だ。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。徳川家の敵といって三成の事を悪く言うのは良くない。君臣とも三成のように心がけるべきだ。)と極めて高く評価しています。
19万石という決して大きくない大名であった三成が、五大老筆頭で256万石と豊臣政権下随一の勢力を誇っていた大大名である家康と、対等以上の戦いを演じた事は、仮に家康と三成の立場が逆であれば、家康は三成と戦えただろうかと考えた場合、やはり彼の能力があってこそではないかとする考えもあります。天元実記には「世の人は石田治部少輔三成のことを、あたかも武道不得手のように評判していたが、事実は異なる。三成は士を愛し、武道名誉の者といえば、何をおいても召抱えた為に関ヶ原における石田家の士の働き、死に様は尋常ではなかった。」と記されています。

2.石田三成は愛されない人物だったのか?

人望が無いという評価が一般的であるが、関ヶ原で西軍として実際に戦った小西行長や大谷吉継や直江兼続、佐竹義宣ら彼の周囲に集まった人物達は三成を高く評価しているのはもちろんのこと、島津義弘の家臣らも三成の義理堅さや人柄を評価している史料(日記)も存在する。更に最近では秀吉の正室 ねね からも厚い信頼を得ていたという説もあります。

(石田三成に関するエピソードを一つ)
秀吉の主催で、ある茶会が行われた時のことでした。茶が回し飲みされ、大谷吉継に茶碗が回ってきた時、椀の中に鼻汁を落としてしまいました。吉継が「しまった!」と思った時には既に遅く、茶碗は次々と回されていきます。
しかし実際には、吉継がこの時にはすでに癩病(らいびょう)に侵されているということは周知の事実で、誰もが気持ち悪がって飲むふりをするだけだったのです。
そして、茶碗は三成に回ってきました。すると三成は何の躊躇も無くそれを一気に全部飲み干したのです。この三成の対応に吉継は屋敷に戻った後、人知れず泣き、以来三成に対して堅い友情を誓ったといいます。

3.横柄であったのも事実のようで‥

横柄な性格であったのは事実であるようで、毛利輝元や島津義弘らは、後年に三成の評価として、「石田は大いに気を使う」・「かの人、扱いにくし」と言うように、三成が秀吉の寵愛をいいことに横柄で、人の気持ちを考えない一面があったと評しています。行政手腕においては誰もに認められるほど優秀であったが、一方で、それと同じように傲慢なところも周囲からの反感を買っていたのは確かです。

4.石田三成に学ぶ

きちっとした性格で、ルーズなものが許せない性格であった半面、男気もあり、人に慕われる性格であったようです。「三成に過ぎたるものが2つあり、佐和山の城と島左近」とうたわれるように、筒井家の家老であった島左近が、名だたる武将の再三の誘いを断った挙句に三成の家老になったのも、三成の男気を感じるエピソードです。
頭脳明晰で先を見通す力があり、男気もある三成ですが、関ヶ原の戦いを失敗と捉えるのであれば、焦りすぎた(我慢できなかった)ことではないかと思います。
関ヶ原の戦いが行われなければ、政権交代する程、徳川の力が強大とならなかったでしょうし、徳川の力が強大になったとしても、せめて大阪冬の陣に石田三成が居ればと考えれば、やはり徳川時代は来なかったと考えるのが順当である気がしてなりません。

本当に大事をなすためには、タイミングを見計うこと、我慢をすることが重要であることを教訓として学ばなければなりません。

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