第28話 丹羽長秀|コラム 先人に学ぶ

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第28話 丹羽長秀

1.丹羽長秀とは

丹羽長秀は、織田信長の領土が尾張のみのときより信長に仕え、桶狭間を始め、数々の戦いを経験してきた宿老の一人である。織田家中では、信長が佐久間、林両宿老を追放した当時、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉の5武将の中でNo.2に位置していた人物である。

丹羽長秀は信長の催した数多くの戦いに動員されているが、彼が方面軍として単独で敵に当った戦いはなく、どれも信長軍の一翼を担うにすぎないという状態であった。結果、大規模な戦いにおいて主力部隊を構成するほどの兵力は持っていなかった(本能寺の変後、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦において、秀吉の動員兵力は2万人に対し、丹羽長秀は3,000人であった。太閤記より)。

長秀が活躍をしたのは軍事以外の面が目立っており、特に安土城普請の総奉行を勤めることが特筆すべき事項である。

丹羽長秀は、明智光秀を討伐した山崎の合戦後、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した際に表舞台に立ちます。秀吉は長秀が織田家の宿老であったことを活用し、柴田勝家と渡り合って行きます。秀吉と織田信孝・柴田勝家が衝突したこの年、美濃から江北にかけて、多数の秀吉の禁制が見られるが、すべて長秀と連名の形をとっているのである(福蔵坊文書・大安養神社文書)。

一方、彼自身は秀吉の下に立って、秀吉を立てていきます。長秀は、滝川一益の訴え、信雄・信孝の領分の境界の争いなど、すべて秀吉にお伺いを立てて、裁定を仰いでいる一方、安土城普請を急ぎ、織田家当主三法師を早く安土に移らせるよう秀吉から命令されている文書が残されています(専光寺文書)。

賤ケ岳の戦いで秀吉が勝利を収めると、柴田勝家の旧領である越前一国と加賀能美・江沼二郡を与えられます。実に123万石、大幅な加増となりました。
長秀は晩年、「羽柴越前守」と称しました。秀吉より羽柴性を賜ったのです。この羽柴性は、元々は秀吉が柴田勝家の「柴」と丹羽長秀の「羽」を両者にあやかりたいとして付けた名前です。このエピソードに丹羽長秀の人柄を推測することが出来ます。
長秀は、賤ケ岳の戦いの2年後に没し、丹羽123万石の勢力を恐れた秀吉は、丹羽家を石高を減じて行きますが、最終的に丹羽家は明治維新の声を聞くまで存続します。

2.丹羽長秀の成功の本質

関ヶ原の戦いで西軍の事実上の大将となる石田三成は石高12万石、一方の徳川家康は約260万石、単独では到底勝ち目のない戦いを仕掛けて負けてしまった三成の対極にあるのが長秀の意思決定ではなかったでしょうか。
本能寺の変当時の秀吉は織田家最大の敵「毛利」中国戦線で戦っており、秀吉の動員兵力が当時の織田家最大、まともに戦った場合、秀吉が勝利を収めるのは誰の目にも明らかであったかのではないでしょうか。織田家宿老であるというプライドを捨てて秀吉の傘下に入り、秀吉の天下取りを全面的にサポートしたことが、丹羽家を明治まで存続させることに繋がります。プライドでは飯は食えないということでしょうか。現代にも通じる現実主義です。

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