第31話 源 義経|コラム 先人に学ぶ

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第31話 源 義経

1. 一の谷の合戦

1184年元暦元年二月、現在の神戸に位置する一の谷には、平家の難攻不落の要害がありました。
この時、後白河法皇の和議の話があり、また要害に拠っているという安心感もあった為、平家方は少し油断しておりました。一の谷は山と海に挟まれており、陸からは大群が攻め寄せられない状況です。そこへ源氏が攻めかかります。
一進一退の攻防の最中、山側(鵯越)より義経率いる源氏の武者が騎乗のまま険しい山の斜面を攻めかかります。この奇襲によって平家は総崩れになりました。

2. 屋島の合戦

一の谷で平家が敗戦した後、平家は屋島で勢力の挽回を図ります。
一方、義経は、一の谷で勝利したことで、後白河法皇より検非違使、左衛門少尉に任命されます。この事が、武家の社会設立を目指す頼朝の意向とぶつかります。頼朝の意向により総大将を命ぜられたのは、義経ではなく、義経の兄、範頼でした。ところがこの範頼、長門で大苦戦をします。平家もここぞとばかりに四国の屋島より援軍を出し、窮地の範頼に襲い掛かります。
範頼からの援軍の要請に際し、頼朝は、急遽義経を援軍に出します。
義経は、平家の根拠地である屋島を攻略することを目的として作戦を立てます。海上の合戦は初めての源氏です。梶原景時は、船の進退が自由に出来るように、船に逆櫓つけることを主張しますが、義経はこれを無視。折りしも嵐の中、義経は出陣を命じます。猛反対を押し切っての出陣の結果、手勢150のみを率いて、義経は屋島の背後に回りこみ、またも奇襲を仕掛けます。平家の屋島の陣は、海上からの進攻に備えて構築されていたため、背後は無防備でした。結果、この戦でも平家は敗戦を余儀なくされます。

3. 壇ノ浦の合戦

壇ノ浦の合戦は、源氏にとって初めての海戦となりました。平家は潮の流れを巧みに利用しながら源氏の船に寄せては打ち、引いては離れ、攻勢を仕掛けます。
ここで義経は考えます。平家の船の櫓を操作する船頭を集中的に打たせます。この徹底した船頭撃ちにより、進退の自由を失った平家はやがて源氏の餌食となりました。

4. 義経の成功の本質

「人の考えていないことをやる。」これが勝つための義経の発想でした。後世に毛利元就が似たようなことを言っています。元就曰く「謀(はかりごと)多きが勝つ」。
この義経の発想法には、現代にも適用できるエッセンスが隠されています。
人は、生活をしていくうち、様々な常識に囚われます。「空は青い、ご飯は白い、男は強くあらねばならない。」など様々な事柄を生活習慣の中から前提条件として吸収しております。この前提条件に従えば、山を馬で下りることは出来ませんし、嵐の中、逆櫓をつけないで海に出ることは無謀な事です。少数で多数の敵と対峙することもナンセンスであり、軍人で無い櫓を操る船頭を殺めることも卑怯な行為です。これは当時の生活習慣から生まれた条件だったのです。
前提条件を取り除く、この思考プロセスが義経の成功への本質だったのです。

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