第3話 毛利元就に学ぶ
毛利元就は、安芸国高田郡、郡山城主の毛利弘元の次男として1497年に生まれています。 関ヶ原の戦いが1600年であることを考えると、戦国武将として有名な織田信長、羽柴(豊臣)秀吉、徳川家康などの面々よりも早い時代の武将で、この時の毛利家は、西に大内、北に尼子という大大名に挟まれた弱小大名でした。 この毛利元就は武将として大きく版図を増やし、死亡する時には中国地方全域に九州の一部までも伺う大大名となりましたが、この毛利元就がどういう人物であったかについてはあまり知られていません。今回はこの毛利元就にスポットを当て、成功の本質について探っていきます。
成功の本質
毛利元就が一生涯を通じて長けていたものを一つあげるとすれば、相手の気持ちを考えることが出来たことではないでしょうか?人の気持ちを考え、味方に対しては必要以上の力を発揮させ、敵に対して考えの裏をかく、これが毛利元就の成功の本質です。以下にエピソードを挙げてみます。
1. 初陣で自ら先頭に立つ
毛利元就の初陣は、形勢が不利な状況での戦となった。熊谷信直、武田元繁連合軍を相手にした「有田の戦い」である。毛利側 1,000人あまりに対し、相手方は圧倒的多数の5,000人弱の軍勢での攻防となったが、自ら先頭に立って士気を高めた。結果、熊谷信直、武田元繁を討ち取り見事に勝利を収めたが、見方の裏切りが日常茶飯事であった当時の状況を考え、皆の気持ちを考えた上で強烈なハッタリが伺えます。
2. 尼子よりも大内を選ぶ
当時の中国地方での強大な大名は大内と尼子、大内氏は室町幕府の由緒正しい家柄であったのに対し、尼子は当主経久が下克上の上で成りあがってきた裏切りも日常的に行う恐怖政治の大名であった。毛利元就は、地理的に近い尼子氏に脅威を感じつつも、大内氏に隷属し、尼子と対立することを選ぶ。この大義名分溢れる決定が、次第に周囲の大名の心を捉える結果となり、将来への礎となったのである。
3. 篭城をするときには、百姓も含め全員で戦った。
尼子が居城の郡山城に攻め寄せてきた1540年、毛利元就は2400人の兵と、農民・商人・職人をあわせた8000人が郡山城に立てこもった。 篭城戦は、長引くと兵の士気は下がり、篭城戦で勝った事例は殆どないといわれている。ところが毛利元就は、度重なる局地戦に勝利し、敵の戦意を喪失させることに成功した。皆の命を守るという大義名分が皆の士気を高め、力以上の力を発揮したことは原因の大部分を占めるが、敵の戦意を喪失させるために、鈍重な動きをしていた大内氏より1万人の援軍を得たことも見逃せない事実である。
相手の気持ちを考えることの重要性
多くの人には意識をしているか否かに係わらず、目標があります。「家を買いたい」、「お小遣いを増やして欲しい」といったことも目標の一つです。そして目標を成就させるために生活を送っていますので、これを無視してはいけません。 北海道にスキーに行くことを計画している人に、北海道への出張命令は、渡りに船となる可能性が高いのに対し、寒い所が大の苦手の人間に、北海道への出張命令は渡りに船とはなりづらいのはわかると思います。 自分の周囲の人々は何を目標としているのか、何が楽しく何がつらいのか、こういった単純な情報収集が出来ており、その情報に従って物事を進めれば成功の確率は高まるのです。