第20話 福島正則に学ぶ|コラム 先人に学ぶ

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第20話 福島正則に学ぶ

1.豊臣秀吉政権下の福島正則

「賤ヶ岳七本槍」の筆頭で幼名は市松と言いました。父は福島正信、母は豊臣秀吉の伯母で秀吉とは従兄弟の間柄にあるとされています。天正6年(1578年)に2百石で秀吉に仕えます。明智光秀と戦った山崎の戦いの功で5百石を拝領。秀吉が柴田勝家と覇権を争った賤ヶ岳の戦いでは一番槍・一番首を果たし、敵将・拝郷家嘉を討ち取り、感状と七本槍筆頭の5千石を拝領し物頭に抜擢されました。この後も順調に出世をしていきます。

* 小牧長久手・紀州根来雑賀一揆征伐にて功があって、播磨龍野城主となりました。
* 九州征伐に従軍した後、伊予湯築(後に国府)11万3千2百石を拝領。 近辺の豊臣蔵入地9万石の代官も務めました。
* 肥後一揆では戦後処理の代官・検地奉行を務めました。
* 小田原征伐では織田信雄指揮下で韮山城攻めに先鋒を務める。所領では 兵農分離・水軍の編成を図り、朝鮮出兵では伊予の水軍を率いて海上輸 送・兵糧輸送の後方支援を主に担当。敵も度々退けました。
* 豊臣秀次の検死役を務めた後、その遺領配分で尾張清洲24万石の大名になりました。

2.その後の福島正則

秀吉没後は朝鮮出兵を機に対立した石田三成らとの対立し、徳川家康に接近します。養子・正之と家康の養女・満天姫(松平康元の娘)を婚約させ、終止家康方として行動しました。関ヶ原の戦いでは東軍(家康軍)の先鋒として奮戦。戦後、安芸広島49万8千2百石に栄転します。

以後、正則は他の大名と同じく徳川家に恭順。豊臣恩顧の大名と徳川家の仲介役となり、自身も家康の養女(牧野康成の娘)を後妻に迎えますが、豊臣家に取り立てられた恩も忘れてはいませんでした。

「大坂の陣」が始まりますが、幕府からは一番に警戒されます。奸臣が挙兵の挙に出たと見た正則は「失敗に終われば自分が先鋒になって大坂城を落とす」と両家の調停を願い出たというが許されず、代理人の嫡男・忠勝の従軍をやっと許されたのみでした。豊臣家からの誘いには「淀殿を人質に出して平和を図るに越したことはない」と応えなかったが、冬の陣の際には大坂蔵屋敷に置いている兵糧米8万石(諸候随一の量)の奪取を豊臣家に容認しています。また、和議が成立して冬の陣の終結を知ると、手を打って「南無三、してやられた」と嘆いたといい、その後の夏の陣で豊臣家は滅亡。その読みは当たることになりました。

大坂の陣終結後、いよいよ徳川の天下は固まって行きました。「武家諸法度」の適用による改易の第一号は皮肉にも正則でした。元和5年(1619年)広島城の無断修築を咎められ、陸奥津軽4万5千石へ減封処分を受ける。旗本に傲慢な態度を取るなど徳川家を軽んじる態度が原因だとも言われています。

幕府の配慮により転封先を信濃川中島へ変更された正則は蟄居して高斎と号し、翌年の同6年(1620年)には嫡男・忠勝死去に伴い2万5千石を幕府に返上します。減封から5年後の寛永元年(1624年)死去。死後、家臣が正則の遺体を幕府の検死役の到着前に火葬してしまい、その事から咎められた福島家は3千石の旗本にまで成り下がってしまいました。

3.福島正則の失敗の本質

福島家は3千石の旗本に成り下がってしまった最大の失敗は、石田三成を憎んだあまり徳川家に味方してしまった事によります。この決断(豊臣家を守る以前に、三成が嫌いであると公言して風潮していた)が自身の首を絞めてしまうことになりました。

また、別の見方から考えれば、徳川家康を選んだにも関わらず、彼の考え方に従えないという無骨さ(皆の前で公言していたと伝えられています)が、彼の首を絞めたとも考えられます。

思ったことをすべて口にし、許された秀吉の小姓時代からの名残を引きづったまま、年だけは重ねてしまい、気がつけば、自分の言葉に責任を取らされる年になってしまっていたと言うことなのです。

言葉には言霊があり、発した言葉は意思を持つとも言います。福島正則の失敗を胸に、言葉の使い方には注意をしなければと痛感させられます。

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