第27話 柴田勝家
1.柴田勝家の人生
織田家の譜代の家臣で信長の父、信秀に仕えます。様々な戦いで武功をあげ、織田家筆頭として北陸地方(対上杉)の平定を任されます。上杉軍や一向一揆の平定に腐心している最中、本能寺の変が起き、信長が暗殺されます。その後、秀吉と戦った賤ケ岳の戦いで負け、越前北の庄にて自害をしました。 享年62歳
2.人生を左右した賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いは、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって、織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけました。
1. 清洲会議
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が本能寺の変で重臣の明智光秀によって殺害されると、山崎の戦いで光秀を倒した羽柴秀吉が、信長旧臣中で大きな力を持つに至った。同年6月27日、当主と嫡男を失った織田家の後継者を決定する会議が清洲城(清洲会議)で開かれ、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と信長の嫡男の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したために、この後継者問題はひとまず決着した。さらに秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門筋である浅野長政・杉原家次をすえた。勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いた。
2. 勢力争い
この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田氏の後方にある上杉景勝や信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が羽柴秀吉になびくなど、やや秀吉に有利な状況にあった。一方で勝家は四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている。 11月、勝家は前田利家・金森長近・不破勝光を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由としたみせかけの和平であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略したと見られる。
3. 戦闘開始
12月2日、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏してしまった。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。 翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵し、峯城や亀山城を落城させた。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月にはこれらへの攻撃を再開、2月中旬には峯城・亀山城と一益の本拠である長島城を攻撃し、亀山城は3月3日に開城した。 一方で越前・北ノ庄城にあった柴田勝家は雪のため動けずにいたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに2月末(太陽暦3月半ば)、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣した。
4. 賤ケ岳の戦い
- (a)布陣
3月12日、勝家は前田利家、佐々成政、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。秀吉も直ちに兵を出し、3月19日には 5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した。3月27日、戦線の膠着もあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還した。 - (b)秀吉の遠征
4月16日、一時秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵して大垣城下へ進出した。秀吉は翌日直ちに美濃に入って同軍を制圧、岐阜城に入った。秀吉の軍勢が多く近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、同19日、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴長秀(のちの豊臣秀長)の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。 - (c)秀吉の帰還と戦闘開始
4月20日、大垣城にあった秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。午後2時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmをわずか7時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。わずかな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政の軍が善戦したために秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、激戦となった。 ところがこの最中、茂山の前田利家の軍が突如戦線離脱し、これによって秀吉軍の前田方への押さえの軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに不破勝光・金森長近の軍勢も退却し、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況に支えきれず軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。 - (d)結末
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢が包囲し、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。また、柴田勝家の後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益に抵抗する力はなく、翌月に両者とも降伏し、まもなく信孝は切腹させられた。
3.失敗の本質
柴田勝家が賤ヶ岳の戦いに敗戦した理由は、人に対する詰めが甘かったのではないかと考えます。
1. 敵に対する甘さ
- 対秀吉
秀吉との間で、冬の時期に戦わないことを約束し、北陸に引き上げます。雪で閉ざされた北日本から出てくるのは至難の技、この間に秀吉は天下を取るための準備を着々と行います。 - 対上杉、一向一揆
対上杉、一向一揆に関しても、秀吉との対戦に集中するためには講和を結んだり、何らかの手を打つ必要がありました。このような抜本的な手を打つ前に、秀吉は反対に上杉と手を結び、柴田の兵を分散させます。結果、対上杉などの押さえのために佐々部隊は、賤ケ岳に到着できませんでした。
2. 部下に対する甘さ
- 対佐久間盛政
佐久間盛政は帰還命令を無視します。これを許す軍規の緩さが命取りとなりました。 - 対前田利家
前田利家は、北陸平定に際して信長より与えられた与力です。与力とは現代の社会では部下というイメージでしょう。この与力が大事な戦いで動きません。この与力だから必ず自分の味方であると確認も怠るところにまた甘さが出ています。味方に甘い大将で、進言をすれば用いてくれる大将。現代のリーダーシップ像から言っても理想に近い姿が想像されます。柴田勝家は人に甘い大将、裏返せば勝つためのこだわり、ビジョンに欠けていたことが失敗の本質だと考えます。