第38話 武田勝頼に学ぶ(その2)
1.上杉謙信の相続争い
1578年に謙信が病死すると、謙信の二人の養子である上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎との間で御館の乱が起こりました。武田勝頼はこの相続問題に首を突っ込みます。越後に出兵し、当時同盟していた北条氏政の弟(遠縁との説もある)であり北条から上杉に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条氏秀)の支援を開始します。この時、勝頼は難しい局面に立たされます。北条家出身の上杉景虎は、四面楚歌になりつつある武田(当時は織田・徳川と敵対しており、景虎が当主となった段階では、北条と上杉も一枚岩となってしまいます)に対し、同盟するなら北信濃一帯及び、上野沼田一帯の譲渡を求めました。一方の上杉景勝は軍資金に困窮していた武田家に2万両とも云われる黄金を支払い、上野沼田城を譲ると言っていたといいます。この状況で勝頼は変節します。武田家は景勝と和睦し越後を去り、戦いは景勝が勝ち、景虎は自害します。この選択が武田家を滅亡に追い込みます。
2.北条氏との同盟破棄、そして高天神城の攻防
景虎を見殺しにされた北条は、武田家との同盟を破棄、結果的に西に織田信長、南に徳川家康、東に北条氏政という3大勢力に挟まれる事態に陥りました。
遡ること3年前、長篠の戦いにて織田・徳川に大敗し、多くの武将を失った上に、北条までも敵に回すという事態に内部が動揺していきます。
1582年2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返ります。この知らせに織田信長が反応し、徳川家康と共に攻め込みます。この時、武田家は内部から次々に崩壊していき、勝頼の叔父、武田信廉は大島城を捨て甲斐に敗走。信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、信濃松尾城主の小笠原信嶺、駿河田中城主の蘆田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏します。武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓います。結果、勝頼は戦わずして敗走、最後は田野(山梨県大和村)で嫡男信勝・夫人ほか40名あまりの家臣ととともに自害、武田家は滅亡しました。享年三七歳。
3.勝頼の失敗の本質
武田家は450年の歴史を誇る甲斐源氏。当時の武士は一所懸命土地を守る、武装農民でした。武田家も例外ではなく、農業を営みながら戦をしました(川中島の合戦が勝敗を決しなかったのもこの辺りの事情があったかもしれません)。この状況は、大名はあくまで国人の代表者に過ぎず、害になる大名であればこれを廃して別の人間をという理屈になってしまいます。信玄の父、信虎を追いやり信玄を選んだ程、国人の力の強いことが逆に弱り目に際し、祟り目に作用してしまった結果となってしまいました。
(参考)
これに対し、信長はこの仕組みの弱点を知っていました。早くから武士と領土を分断します。武士は戦うプロ集団となり、領土に帰って農業はしません。結果、国人に土地を与える大名の発言権は飛躍的に上昇し、国人の代表という立場から国人の主へと変わっていったのです。信長が行った領地換えの仕組みを豊臣秀吉、徳川家康が引き継いでいき、長い太平の世の礎となったのです。
この時代、戦は強くなければならないが、国人の力は弱くしなければならない。相反する命題ですが、この相反する命題の答えが出せた者(現代でも在庫は少なくしたいが、欠品は防ぎたいと考え、POSシステムを利用したセブンイレブンは大会社になりました)が成功の階段を登っていくのです。