第36話 豊臣秀頼に学ぶ
1.豊臣秀頼とは
豊臣秀吉と淀殿との間に1593年(関が原の戦いは1600年)に生まれた子供であり、文禄4年(1595年)、秀吉から関白職を譲られていた豊臣秀次(秀吉の甥)が失脚して切腹したため、秀頼が豊臣氏の後継者として伏見城で育てられます。
慶長3年(1598年)、秀頼5歳の時に秀吉は死去します。
2.秀頼の3度の戦い
(1)1600年関が原の戦い
秀頼は、西軍の総大将として擁立、五大老毛利輝元の庇護下におかれます。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加しましたが、秀頼自身は出陣していません。結果、東西両軍とも『秀頼公のため』を大義として戦い、戦後に秀頼は勝利者の家康を忠義者として労いました。この戦いの戦後処理で、家康は豊臣家の220万石あった所領を65万石に削減し、豊臣家は一大名に格下げとなりますが、形式的には徳川家の主筋でありつづけます。家康はこの状況を変えようと、様々な画策をすることになります。
(2)1614年大坂冬の陣
家康の画策の結果、豊臣方が立ち上がらざるを得なくなります。豊臣家は福島正則、加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄をとばしますが大坂方に参じる者はなく、関ヶ原の戦いで主家が西軍に組し取り潰しにあい放浪していた数万の浪人たちや真田幸村(真田信繁)、後藤又兵衛(後藤基次)、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら浪人衆が大坂に入城します。
浪人衆が、城を出て進撃を唱えても、受け入れず(淀殿の反対によるものと伝えられている)、大坂城に篭城をして戦い、秀頼自身は一度も出陣することなく、家康方の和議の申し出を受け入れる形で戦いが終了しています。
和議は惣構えの破却を条件に結ばれました。しかし徳川方は恒久講和など考えておらず再び豊臣を攻め滅ぼすことも算段に入れており、和議は謀略でした。幕府方は豊臣方との約束を無視して「惣堀ではなく総堀である」と大坂城の全ての堀を突貫工事で埋めてしまいます。
(3)1615年大坂夏の陣
冬の陣の和議の後、堀の件でだまし討ちをされた大坂方は、浪人の総追放や国替えを拒否し、再度戦端が開かれました。大坂方は堀が無く裸城となった大坂城では防戦しきれないと判断し、野戦となります。真田幸村、毛利勝永らが奮戦するも、多勢の徳川方の前に敗戦が濃厚となります。真田幸村は最後の願いとして秀頼に出陣を願い出ましたが拒否され、秀頼の出陣なしに夏の陣は豊臣家の滅亡とともに終了しました。
3.豊臣家の滅亡と失敗の法則
豊臣家の滅亡は様々な理由がありますが、大将である秀頼の出陣が一度も叶わなかったこともその大きな原因であると考えられます。対する徳川家康は、老骨に鞭打ってこれらの闘いに自ら参陣、この違いが両者のその後を左右したのではないでしょうか。
近代でも似たようなエピソードがあります。
日露戦争の二百三高地で苦戦をしていた日本軍は、乃木将軍らが作戦指揮を前線の見えない場所で行っていました。
結果、前線では日本軍が苦戦し、累々と屍を積み上げていきます。この時、事態を憂慮した陸軍総参謀長の児玉源太郎は、苦戦している二百三高地をてこ入れする為、本軍からはるばる離れた二百三高地を視察(その視察は実際に玉の飛んでくる前線現場にて行いました)、必要な処置を講じました。結果、二百三高地を日本軍が攻略し、日露戦争終結に大きな前進をすることになりました。
トップセールスという言葉があります。セールスの技法などは普段営業をしている方がうまいのでしょうが、トップが現場に出ていくことにより、本気の度合いを取引先にも、会社内にも知らしめる効果が期待できます。
特に何かがうまくいかない時に、先に行くのはトップの宿命。是非トップが前面に出て、皆に背中を見せてあげてください。