第21話 王貞治に学ぶ
1.王貞治とは
1940年東京都生まれ。一塁手。左投左打。背番号1。早稲田実業2年のとき、春の甲子園で優勝投手となり、1959年に巨人へ入団。一塁手に転向し、初安打を本塁打でマークした。最初の3年間は、平均打率が2割4分台でタイトルとも無縁だったが、1962年に荒川博打撃コーチとともに一本足打法を研究し、習得すると38本塁打で初の本塁打王を獲得。以降13年間連続本塁打王という快記録を達成する。特に1964年には日本記録となるシーズン55本塁打。1973年・1974年と2年連続三冠王にもなっている。1975年はスランプのため、田淵に本塁打王を譲ったが、1976年、 1977年にも本塁打王を獲得。
本塁打王獲得回数は15度にのぼり、通算本塁打数868本は、ハンク・アーロンの大リーグ記録755本を抜いて世界記録となっている。
1980年、30本塁打を打ちながらも、自ら引退を宣言して惜しまれながらバットを置く。
≪通算成績≫
* 打率.301 本塁打868本(世界記録)
* 打点2170(史上1位)
* 本塁打王15回(史上1位)
* 打点王13回(史上1位)
* 首位打者5回(史上3位)
* MVP9回(史上1位)
* 三冠王2回(史上2位)。
2.一本足打法が生まれるまで
昭和34年に巨人軍に入団。期待されていたが、初打席から実に26打席連続ノーヒット。最初の年は打率.161、ホームラン7 本、打点25と大低迷。2年目、3年目と、ある程度の打率は残すが、3割に届くことはなく、ホームランも少なく、とてもクリーンナップを任せられる打者ではなかった。
荒川コーチは王がバットを振るときに、腕を後ろに引く癖があることを指摘。以来、その癖を修正する為に右足を上げてスイングする練習が始まった。昭和36年10月から、4年目の公式戦シーズンが始まるまで特訓は続いた。 そして4年目のシーズンが始まったが、特訓の成果はなかなか現れない。この年は長嶋の不調も手伝って、巨人は不振にあえいでいた。6月30日、当時の大洋に負けた試合後、王が荒川コーチにポツリと言った言葉。それは「打席に立つのが怖い」だった。当時の王は追い詰められていた。半年以上練習してもそれが結果に現れないことに焦りも感じていた。
『昭和37年7月1日』。王の一本足打法は開花する。その日は雨で試合開始が延長。そんな中、緊急コーチミーティングがあり、荒川コーチは当時のヘッドコーチにこってり絞られ、「王にホームランくらい、いくらでも打たせますよ」と豪言。その後荒川コーチは王のズボンを引っ張りこう言った「王よ、お前足をもっと上げろ。もっと膝から挙げろ。ピッチャーが足を上げたら足を上げて、下ろしたらお前も足を下ろして打って来い」と。
藁にもすがる思いの王さんは、その日、言われたとおり足を高々と上げてスイング。『一本足打法』が生まれた瞬間。第一打席ヒット、第二打席ホームラン。この日から世界の王はホームランを量産することになる。 しかし一本足打法には弱点があった。それは"タイミングがとりづらい"ということ。この為、緩急をつけた球はなかなか打てなかった。これを克服する為に行ったのが、「合気道」や、有名な「真剣刀」を使った特訓だった。以前の練習と違い王はこの練習に全神経を注いだ。当時を振り返って王は言う。「結果が出るから、練習が楽しかった」と。こうしてタイミングをとる特訓を重ねた王さんは、「一本足打法」を完全に自分のものとし、世界の王となったのである。
3.成功の本質
王貞治の成功は大切な2つの要素を秘めています。
荒川コーチの助言に際し、すぐに行動に移したこと。
打者にとって打法改造は、今までの全てを否定する行為です。外部から見れば結果が出ないから当然と思うのですが、本人としては一大決心です。 謙虚に聞く姿勢が出来ていたこと、絶対に成功をするという強い信念があったことがすぐに行動に移せた要因として挙げられますが、これを維持することが大変です。プライドを持って謙虚にが成功のキーワードです。
少々結果が出なかったとしてもあきらめないこと。
王貞治もそうでしたが、結果が出なくても諦めずにコツコツと積み上げたところに成功が潜んでいるものです。情熱をいつまでも忘れずに!