第33話 武田信玄(その2)
1.信玄の思想
(1)人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。
「どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる」。
この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の館である躑躅ヶ崎館に住みました。
(2)其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(風林火山)
「その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、(知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し)」。孫子に記された言葉であり、しばしば風林火山と略されます。信玄はこれを軍旗として戦いました。
(3)甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)
- 国人・地侍が罪科人の所領跡という名目に土地を処分することを厳禁し、領国全体を武田氏が領有することを定めている。
- 国人・地侍が農民から理由なく名田を取り上げるようなこと を禁止して、農民を保護している。
- 訴訟時において暴力行為に及んだものは敗訴とする。
- 年貢の滞納は許さず、その場合には地頭に取り立てさせる(6条)。
- 家屋税として貨幣で徴収する棟別銭について、逃亡しても追ってまで徴収する、あるいは連帯責任制により同じ郷中に支払わせる。
- 隠田があった場合には、何年経っていても調査により取り立てる(57条)。
- 被官について、武田信玄の承諾なく盟約を結ぶことを禁ずる(14条)。
- 他国に勝手に手紙を出してはならないことを定め、内通の防止を図っている。
- 喧嘩両成敗(17条)
- 浄土宗と日蓮宗の喧嘩禁止
- 分国法は分国内のいかなることも拘束し、武田信玄自身も、この法度に拘束される。
≪ウィキペディア(フリー百科事典)より引用≫
2. 信玄の起こした失敗
武田家は信玄が死んだ後、信玄の四男である武田四郎勝頼が織田信長・徳川家康連合軍と長篠で合戦し、敗北を喫した後、急速に衰退して滅亡します。
(1)時代背景
戦国時代は下克上の時代です。殿を殺して自分が大名になるか、隣の大名に寝返るか。そんなことを毎日考えていたのだと思います。何しろ、自分の家の存続を最優先と考えている時代であり、日々隣国から戦いを仕掛けられる時代です。強いものにしか従わないのです。
(2)武田信玄の運営方針
武田信玄の運営方針は、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」、つまり皆の力を結集すれば繁栄するというものです。これは一見簡単そうで、非常に難しいものです。信玄の運営方針を言い換えれば、武田家が、隣国よりも勢力が強いと常に思わせておくほどのリーダーシップを要求しているのです。
(3)他家はどんな工夫をしていたのか?
織田信長、徳川家康で顕著でしたが、部下の武将の勢力を削いで(領地を狭くするように運営していきます)、本家の力を大きくしていく事に力を注ぎました。信長が佐久間や林の老臣を追放したことは有名ですし、徳川四天王と言われた酒井(14万石)、井伊(12万石)、本多、榊原(10万石)の4名の禄高は極めて少ないものでした。多くの領土は徳川御三家が直轄していました。
(4)結論
信玄は、部下の勢力を削ぐことをせず、後継者である勝頼に脆弱な基盤を引き継ぎます。この基盤は現在のアメリカ議会におけるブッシュ大統領のように弱い政権基盤でした。これが武田家を滅亡に追い込みます(同様に秀吉亡き後の豊臣家も全く同様でした。結果、豊臣政権は滅び、徳川時代となりました)。
3. 信玄の失敗から我々が学ぶべきこと
カリスマは長続きしないのが歴史の習いです。現在、カリスマである経営者の方であれば、次の世代のために安定的な政権を引き継ぐことを考慮しなければなりません。『自分がやってきたから息子も出来るはず』というのは当てはまらないケースがほとんどです。信玄や秀吉の二の舞は起こさないでください。