第39話 楠木正成に学ぶ
1.楠木正成とは
楠木正成は、後醍醐天皇の時代、つまり鎌倉時代の末期(北条執権政治の時代)に登場した武将です。正成は、河内の国に生まれたとされていますが、出自など良く知られていない武将です。しかし後醍醐天皇に忠節を尽くし、後醍醐天皇を助けた挙兵から、建武の新政を経て、足利尊氏軍と戦い戦死します。この間僅か6年、しかしこの6年の後醍醐天皇への忠節が「太平記」で中心的に取り上げられ、日本史上、有名な武将の1人となっています。
2.楠木正成挙兵
楠木正成が挙兵した当時、後醍醐天皇は鎌倉幕府の圧力に悶々としていました。悶々としていたの後醍醐天皇だけでなく、各地の武士は、皆、北条執権政治の横暴に我慢を強いられていました。
そんな時代、後醍醐天皇が反幕府勢力に対し、北条討伐の綸旨(りんじ、命令書のことを指します。)を出し、楠木正成は居城赤坂城で、後醍醐天皇は笠置山で反幕府の旗上げをします。数万の幕府軍に対し、赤坂城に篭る兵数はわずかに500。それも孤立無援の兵でした。ほどなくして笠置山の後醍醐天皇は捕らえられて隠岐に流されました。赤坂城も落城しますが正成は落ちのびます。その後幕府軍の包囲網から脱出した正成は、護良親王(後醍醐天皇の皇子)と提携して和泉・河内を中心に各地に出没し、幕府を悩ませ、さらには河内金剛山の要害・千早城に篭城し、天才的軍略と山岳ゲリラ戦で10万に及ぶ幕府の大軍を翻弄しました。このゲリラ戦が全国の武士達に弱体化した幕府を知らしめることになり、各地で反北条勢力が蜂起、最後は新田義貞、足利尊氏が鎌倉、六波羅を攻め落として鎌倉幕府は滅びました。
3.楠木正成の最後
楠木正成はこの後、後醍醐天皇の中枢として大事な役割を担っていきます(建武の新政は、当初は反北条という意味で多くの武士に受け入れられましたが、公家の力を維持しようとするにあたり、地方の武士が反発、次第に求心力を失って行きます)。
正成の最後は足利尊氏との戦いでした。この戦いの直前、楠木正成は足利尊氏を破りますが、この時、後醍醐天皇に尊氏との和睦を訴えます。「北条を打ち破った戦いには、天の利、地の利、人の利は我が方にありました。今はそれが足利にあります。足利とは和睦すべきです。」
ところが、足利との和睦案は後醍醐天皇によって却下され、この直後、西より陣容を立て直して攻め返してきた尊氏軍に敗れます。
4.天の利、地の利、人の利
「天の利、地の利、人の利」この中でも人の利を無視してしまっては何事も上手く運びません。この人の利を得るために、古来より大将は「大義名分」を大事にしていったのです。人の利があれば、地の利、天の利はおのずと引き込まれてくるのです。
この大義名分、元々は儒教に由来する考え方で、臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指したものでしたが、時代と共に多くの場合、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指すようになりました。
現代の企業経営では、「従業員を大事にする」や「企業と従業員のビジョンを統一にする」という表現が用いられ、大義名分の重要性を訴えています。最近ではキャリア志向の人材が多いので、特に個人の成功と企業の成功のベクトルをあわせる努力が求められています。現代であるからこそ特に強い「大義名分」を皆が求めているのです。