第40話 北条氏康に学ぶ
1.北条氏康とは
北条早雲を始祖とする後北条家(ちなみに前北条家とは、鎌倉時代の執権北条家)の3代目当主であり、関東を治めました。1515年に生まれ、1571年に病没、時代的には武田信玄(1521年-1573年)とほぼ同時代の武将です。
2.関東の戦い
(Wikipediaより引用)
天文14年(1545年)、今川義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)等と挙兵しました。氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた足利晴氏も連合軍と密約を結び後に参戦しています。義元は北条氏綱に奪われていた東駿河の一部を奪還すべく軍事行動を起こしました(これを第2次河東一乱という)。しかし武田晴信(のちの信玄)の斡旋があって、氏康と義元は和睦します。
天文15年(1546年)、態勢を立て直した山内・扇谷の両上杉氏と足利晴氏の連合軍、およそ8万(誇張の可能性がある)の大軍が北条領に侵攻します。このとき、北条軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢でした。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘います。そして氏康は義弟・北条綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかけます。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡しました。また、上杉憲政は上野平井に、足利晴氏は下総に遁走します。
この戦いが、織田信長における桶狭間、毛利元就における厳島の戦いと同列に、戦国三大奇襲作戦とされている「河越夜戦」です。
この勝利により、氏康は関東における支配権を確立します。そして天文20年(1551年)には、憲政を越後に追放し(平井合戦)、天文23年(1554 年)の古河城侵攻(2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子の義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉)で、それをさらに確固たるものとしました。
3.北条氏康の成功の本質
1万人足らずの北条軍に対し、相手の軍は8万人。相手の慢心も存在したようですが、この状況に氏康は勝機を見出します。この時、出陣に際し氏康が命じたのは「上杉の首のみを目的とし、討ち取りし将兵の首はすべて捨て置くこと」
この明快な目的が結果を生みました。
日本の戦史上、第二次世界大戦のミッドウェー海戦のように目的を絞りきれずに目的を遂行できない事例は事欠きません。
「目的を明確に絞ること」簡単な様でいて、難しいことです。それだけに、日頃から常に意識し、実践できるよう努めることが大事なのです。