第4話 徳川家康に学ぶ
徳川家康は、三河岡崎城主松平広忠、正室於大の方の嫡男として1542年12月26日に生まれています。この当時の松平氏は、前回の毛利家同様弱小大名で、東に大大名の今川家、西には意気盛んな織田家があり、家康も若い時分から東西に人質として過ごす日々を送ってきました。 この徳川家康は、皆様ご承知のとおり明治維新までの200数十年を支える江戸幕府の開祖であり、日本の戦国時代の中で一番出世をした人ですが、この成功の本質についてはあまり知られていません。今回はこの部分にスポットを当ててみたいと思います。
1. 質実剛健 滅私奉公の「三河武士」
三河武士は主君に奉公するという気風が強く、また家康も忠誠をつくす家臣を大事にしました。あるとき秀吉と諸大名との雑談のおり家宝の話となり、大名たちが刀や茶器を家宝として自慢したが、家康は「私の家は三河の田舎ゆえ、人に自慢できる宝物などありません。ただ、私のために命を投げ打ってくれる500人ほどの家来がいます。これが私の宝です」と答えたといいます。事実、徳川四天王、徳川十六将をはじめ家康軍団は一枚岩の結束で数々の合戦を制してきました。
2. 家康軍 合戦のエピソード
(1)姉川の合戦
姉川の合戦は1570年6月28日に織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍の間で繰り広げられました。織田軍15,000人の正面に浅井軍8,000人、徳川軍6,000人の正面に朝倉軍10,000人という陣容で合戦が行われた。 戦は、織田軍が浅井軍に追い詰められ、危うく崩れかけそうになった局面で、徳川軍が正面の朝倉軍を壊滅させ、織田軍に援軍を差し向けたことで形勢が逆転し、織田・徳川連合軍の勝利で終わりました。 ここでの徳川軍は、約2倍の兵力と戦っており、その質実剛健さ、忠節無類ぶりから「主君家康のためには、命を惜しまぬ三河武士」とたたえられ、野戦において屈強の軍団だと天下に印象づけた合戦となりました。
(2)小牧・長久手の戦い
賤ヶ岳の合戦でライバルの柴田勝家を滅ぼし天下覇権を目指す秀吉と、その秀吉にブレーキをかけたい家康との戦いで、1584年に起こりました。家康軍二万に対し、秀吉軍は5倍の十万の兵力で臨みました。しかし地の利がある家康軍に対し秀吉は積極的に戦わず、家康軍に隙が生じるのを待ちましたが、反対に寄せ集めの大群を要する秀吉軍が待ちきれずに進撃し、大敗を喫した戦いです。
戦は、三河の中入れ(家康が小牧山に釘付けになっている間に、秀吉の別働隊を家康本拠地の三河に派遣して侵攻しようとした戦法)を家康軍が見破り、長久手にてこれを撃破、その後急転し小幡城に戻ったが、秀吉本軍が小幡城に到着する前に、小牧山の本陣に戻り秀吉に肩透かしをくらわした、という家康の戦術勝ちでありました。以後、秀吉は積極的に戦わず、外交戦略で徳川軍を味方につける戦略に変更します。 ここでの徳川軍は、家康の号令が一糸乱れず全軍に行き渡り、各々の武将が持ち場で目的を明確に行動したことで、寄せ集めの秀吉軍を1/5の軍勢で破るという結果となっています。
3. 家康軍は何故強いか
さて、この一枚岩の結束を保った家康軍の強さの秘密はなんだったのでしょう。歴史小説などではあまりクローズアップされていませんが、徳川家康という人は、生来無口な人で、とくに部下に対しては多くを語らなかったという文献が残されています。 忠誠心の強い武将達は、家康にお目見えをした際に、家康が「ぼそっ」と発した言葉の意味を考え、皆と相談して本来の目的を考え、その目的にしたがって行動をすることが鍛練されていったのでしょう。このことが戦場において、瞬時の状況判断を求められても、主君家康の真意を汲んだ対応が可能となったと考えられます。
4. 成功の本質
「ぼそっ」と話して、あとは部下に任せた「徳川家康」、家康の真意は何かを一生懸命考え本来の目的を探す「部下」、これこそが現代にも通じる成功の本質(権限の委譲と責任感のある対応)なのです。