第32話 徳川家康(その3)
徳川家康、言わずも知れた徳川幕府(江戸時代)を作り出した人です。今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」でも重要な役回りで登場しています。私がこの原稿を書いている当時、関が原の戦いがクライマックスを迎え、家康役の西田敏行が好演しています。
この家康、徳川幕府を創設し日本の武家の棟梁として君臨します。このターニングポイントとなった戦の一つが言わずもがな「関が原の戦い」ですが、実は隠されたターニングポイントとされている「小牧・長久手の戦い」に今回はスポットを当てます。
家康は、この「小牧・長久手の戦い」で秀吉に勝利し、秀吉政権下で家康が大きな禄高(約240万石、動因兵力は約6万人)を持つに至りました。これが後の関が原の戦いの勝利に繋がっていくのです。
1.小牧長久手の戦い
小牧・長久手の戦いは、徳川家康と豊臣秀吉が戦った唯一の戦です。織田信長が本能寺で倒れ、秀吉が政権を奪取する戦いの第2章です。家康は織田信雄(信長の次男)を担いで尾張に出兵した秀吉に対抗します。
信雄はいかに愚物とはいえ信長の実子、故主への恩義に味方する旧臣もあるだろうと、家康は清洲城に腰を据えて形勢を見守っていると、秀吉軍は続々と美濃に進出してきます。その兵力は約五万、信長の乳兄弟の池田勝入信輝までが、秀吉軍に居城大垣城を提供する有様です。
秀吉が帯同した本隊は3万人、総勢8万人にふくれ上がります。こうなるとさすがの三河兵団も手が出せません。しかし、この時期の秀吉の軍旗は寄合所帯の感を免れず、秀吉もまた同様に手を出し難い状況でした。統一した指揮権もまだ確立しておらず、各武将が勝手に戦功を争い、またそれを厳しく取締まれないのが秀吉の弱点でした。
秀吉が着陣前に発した軍令は、『自分が着陣するまでに、敵が挑発しても戦闘を始めるな!』というにとどめます。つまりは戦わずして数で圧倒し、敵の戦意を喪失させようという策でしたが、その軍令は容易く破られます。池田信輝と女婿森長可が勝手に行動し、勝ち、また敗れたのです。
それに対し、小牧山を確保した家康は、東西にわたる長大な野戦陣地を構築します。壊を掘削し、土を撞き上げて土塁を築く。その背後に延々と馬塞ぎの柵を立て並べます。いわゆる縦深陣地です。家康は、その長城のような陣地の要所六カ所に砦を築いて防禦を固めます。これが小牧山・蟹清水・北外山・宇田津・小幡・比良の諸城砦です。いずれも田野の中の古城塁を改修し築きあげます。長篠の合戦で武田勝頼の騎馬軍団を打ち破った信長を真似たものでした。
3月27日、秀吉は犬山城に入ると、すぐさま自ら偵察に出ます。羽黒川の東に、二宮山という小高い丘があり、秀吉は小者の助けでこの丘に登り、西南方の小牧山を遠望します。見はるかす丘陵と田野を縫って、長蛇の如き防柵が見渡す限り続いており、先年の武田勝頼が伊那から下って三州岡崎を窺おうと長篠城を囲んだ際、信長は家康と連合軍を組んで、これを設楽ケ原に迎え撃ちしています。この防塞戦術は武田の騎馬軍団の掃滅に信長が創案したものでした。
秀吉は、家康が作った長城を囲む防塞柵を短時日のうちに築かせ、その拠点城砦は、二重堀・田中・小松寺山・外久保山・内久保山・岩崎山・青塚・小口・飛保の九カ所に設けます。いかにも土木工事好きの秀吉らしい発想でした。その急先鋒が池田信輝と森長可。森氏は美濃の名族で、信長が台頭する頃、その傘下に入ります。その頃の当主森可成は、信長が近江浅井氏と戦を交えている頃、近江宇佐山城で戦死を遂げています。三左衛門可成は子沢山で、6人の男子がそれぞれに資質・容貌に優れており、本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸はその3男、蘭丸と共に討死した妨丸・力丸は、四男と五男です。森長可は三左衛門の2男で、父の死後、美濃金山城七万石を相続しています。
池田信輝が提案した策とは、小牧山を囲んで千日手に陥っている秀吉軍とは別に、一軍を組織してひそかに敵中を迂回し、家康の本拠地三河を衛けば、狼狽して退却するに違いない。さすれば徳川勢は崩潰する、という策です。これは「中入り」という戦法と呼ばれ、信長がそう名付け、桶狭間合戦以来、好んで用い、時に大勝し、時に大敗しています。第一次朝倉攻めでは大敗し、第二次朝倉攻めではついでに浅井長政まで滅ぼす程の大勝をました。近くは秀吉と決戦した柴田勝家が、賎ケ岳で甥の佐久間盛政が用いて大敗し、柴田滅亡の因となりました。敢中突破、というと聞えはいいのですが、危険も大きく、勘のいい秀吉は、総毛立つほどの戦慄を感じていたのです。だが、傘下の諸将の間には早くも倦怠の気が湧き、不満の声が囁かれ始めている。やらせなければならないと決断します。
信長の家臣の中で勇猛と誠忠、信望厚い池田勝入信輝が、旧主の忘れ形見織田信雄の許に奔るとあって同調者が続出したら、秀吉軍は戦わずして崩潰しかねない。やらせる以上は成功させたい。成功しないまでも、見苦しい負け方を避けたい秀吉は旧織田家中で最も思慮分別に富み、戦上手でも聞えた堀秀政の軍勢を加え、更に秀吉自身の名代として、秀吉の姉の子秀次に兵8000人を与え、参加させます。中入りの別動部隊の内訳は、次の通りです。
先鋒池田 信輝 6千人
第二陣 森 長可 3千人
第三陣 掘 秀政 3千人
殿軍 三好(羽柴)秀次 8千人
その数計2万の大軍となり、これは小牧山に陣取る信雄・家康連合軍と同数に及びました。秀吉軍は対崎している敵が、どれ程の兵を割いてわれらを追撃できるか生半の軍勢なら鎧袖一触、蹴散らして押し通るのみと考えていました。その思い上がりが、戦馴れした信輝・長可だけならまだ許せましたが、年齢十七の思慮分別に欠ける秀次にまで伝播したため、悲劇が起こります。
天正12年(1584年)4月6日夜半、中入りの別動軍は秀吉陣地を出立した馬に枚を含ませ、草摺りを縄で縛った隠密行動の別動軍は、道を山間にとり、秀吉本陣のある二宮山の東南部へ抜け、林伝いに前進します。予想を越える難行軍で、山道は狭く、人が並んで歩けないため、長蛇の列となり二宮山を離れる頃はすでに陽が高くのぼり、巳ノ刻(午前10時頃)を過ぎ、隠密行動は陽にさらされる有様となります。すべては、偵察と諜報活動を怠った為で、秀吉軍は寄合所帯のために緻密な準備に欠けた結果によるものです。一方、家康はその手配りには細心だったのです。
信輝・長可は、あえて曝露行動を採ります。別動軍は池之内、大草の山間方面から平野に降り、庄内川流域の田野を突っ切って篠木・柏井という村落で宿営しました。それでも信輝・長可は一夜砦を築くほどの用心は怠りませんでした。その日の夕刻、家康の許へ別動軍の一部(森長可勢)が宿営した篠木村の村民2名が、別動軍の動静を家康に急報してきます。三河を荒らされてはたまらない家康は、ようやく攻撃を決意します。だが問題はどれ程の兵力を抽出できるか、です。小牧山の戦線に展開している信堆・家康軍は、2万しかいません。
家康は、思い切って小牧山戦線に6千500人を残し、1万3千500人の軍勢を自ら率いて出陣します。家康は、直ちに水野忠重に命じて、清洲城と長久手山の間にある小幡城に向かわせました。家康の本隊が、小牧山を離れたのは戌ノ刻(午後8時頃)でこのときの先鋒は、甲州武田の旧臣を中核に編成した井伊直政の赤備えで徳川の軍勢中最強の部隊とされていました。
家康が、追撃軍を出発させる前に、先発隊水野忠重4千500人を先行させ、予定戦場の近くの城砦小幡城を確保させたのは、いかにも家康らしい戦略でした。
中入りの池田・森・堀・秀次軍の総勢は約2万人、追撃する家康軍の軍勢は1万3千500人しかいません。家康は奇襲で数の劣勢は補えると思ったが、小牧山前面の秀吉軍勢6万人、家康が小牧山に残した本隊は6千500人、秀吉が全軍を投じて攻撃してくれば一溜りもない状況でした。
また秀吉が兵力の半ばを割いて追撃軍を更に追軍すれば、これまた兵力に劣る家康軍は敗北必至だったでしょう。家康は、9千人の追撃軍を率いて、一刻半(約三時間)の夜行軍をして、途中竜源寺という寺で小休止し、更に行軍を続けて小樽城に入って先発隊と合流します。ときに深夜子ノ刻(午前零時頃)でした。
この間、約一里半(六キロ)北方に宿営した中入り部隊仇敵羽柴秀次軍は、『そういうことは、先行部隊がやるだろう』と高を括り、偵察も諜報活動もしていませんでした。実は、陣地を離れてしまったら、先行も殿もなく、各部隊はそれぞれに自軍の保全のため、諜者を撒き、斥侯を出し、尖兵を置いて警戒に努めるのが常識と言われています。不思議と言うべきか、それともただの怠慢だったのか、陣地を離れ孤軍になっているという自覚がまるでありませんでした。従って翌日の行程に予定していた小樽城の偵察もまったく行いませんでした。
一方、小樽城に入った家康は、敵の状況を分析し、作戦を練ります。中入り部隊の半ばはすでに小樺の付近を通過し、長久手の狭陸路にさしかかり、先鋒の池田信輝勢はその南方を振する岩崎城を攻略するかの勢いです。家康は、数に優る敵との正面衝突を避け、敵勢の殿軍に喰らいつき、尾撃しながら順次破砕する策をとります。幸い、敵の殿軍は、若輩で戦馴れぬ三好秀次です。まず秀次軍の不意を衝いて撃破しようと行動します。
丑ノ刻(午前二時頃)、秀次軍は棟木村の宿営を発し、夜行軍を開始します。時を移さず家康軍の別動隊水野忠重勢が城を出て、半刻(約一時間)の間に秀次軍を発見し、追尾します。家康は若干の兵力を城に残し、主力9千500人を率いて先行し、長久手の狭陸路を眼下に見る色ケ根の高地を占領し、更に対稜の富士ケ根に兵を配し、池田・森隊が退却してくるのを待ち伏せます。水野隊に喰らいつかれた秀次軍は、その事に朝まで気がつきません。秀次の補佐役は近江出身の田中吉政(後に筑後柳川30余万石)です。秀吉の直臣で尾張出身の者は戦に強く、近江出身の者は計数に長けた吏僚向きで、戦巧者は大谷吉継をおいて他にはいません。田中吉政も例外でなく、戦はむしろ下手な方でした。秀吉が戦功に乏しい田中吉政を付けたのは、近江駒の家臣にも手柄を立てさせてやろうという配慮です。だが戦というものは情実や年功序列で人を選ぶと必ず失敗します。
秀次軍が矢田川を渡り、白山林の台地にさしかかった時、ようやく空が白みます。林間の一帯道に沿って軍勢は大体止に入り、雑兵は水や枯れ枝を求めて林間に散ります。最後尾の穂高山城守の隊が、大体止の隊列に追いついた時陽が昇り、それと同時に未だ暗い林間から、銃声が響き、水野隊4千500人の急襲が始まります。不意を衝かれた秀次軍の狼狽は極限に達します。縦列の密集隊列に撃ちこむ銃弾は殆ど無駄弾が無く、隊列を薙ぎ倒したばかりか、一斉射撃が終わるとすぐさま林の中から三河勢が猛り狂ったように突撃します。秀次軍はもう反撃のしようがありません。刀槍を捨て鎖兜を脱ぎ脱ぎ捨てて、身一つで逃げるのが精一杯でした。主将の秀次までもが馬に乗る余裕すらなく、馬廻り(親衝隊)の者たちと我先にと、走りに走ました。
秀次の本隊は、先を競う様に長久手の方面へ逃げ、残余の者は岩作の方面へ逃走しました(実は岩作へ逃げる選択が正しかったようでした)。水野隊4千500人は、8千人の敵を撃破したにもかかわず殆ど傷ついておらず、秀次の本隊の潰走にますます勢いづき、追いに退って香流川を渡り、細ケ根という狭い岐路に秀次本隊を追いつめます。秀次は死地に追いつめられた感があったが、この時に至って馬廻りの士と卒が奪いたち、力戦奮闘して反撃し、ようやく岐路を突破して一路楽田城へ逃げ帰ります。水野隊は、秀次軍を潰滅した勢いを駆って、次なる中入り部隊第三軍掘久太郎勢3千人を求めて追撃し、秀吉は長久手の敗報に接したとき、単なる大敗ととらえず、これを勝利への転機にしようと発起します。家康は小牧の陣地を離れ、山野に浮遊しています。これを捕えれば一挙に破砕できると考え、秀吉は2万人の兵を率いて出陣し、更に残る全軍に機動の準備を命じます。この頃、秀吉軍には遅れて参陣する者が多く、その兵力は10万人を越えたともいわれています。尾張の山野にある家康とその軍勢1万3千500人にとって、最大の危機が訪れます。
忠勝勢600人(石川康勝勢を含む)は迅速に南下しつつ、東を指向します。やがて、東の山寄りの道に、秀吉軍本隊を発見します。時は旧暦4月9日(新暦では5月18日)温気に陽炎の立つ山野を埋め尽して、秀吉2万の大軍が南下して行きます。平八郎忠勝は急追して春日井原あたりで追いつき、田野の向こうに秀吉軍本隊の移動するのを見て、忠勝は、手勢を3隊に分けます。1番物見と称する1番隊は三浦九兵衛、2番隊は忠勝自身、3番隊は松下勘左衛門が指揮し、敵の大軍に向って代る代る攻撃を仕掛け、反撃の幾を与えず離脱していきます。本多平八郎忠勝の指図で、家康軍は夜半城を抜け出し、城は空になり、秀吉は、不覚にも翌朝それを知ります。秀吉と家康は、ふたたび小牧で対時の態勢に戻ります。
この後、膠着状態を嫌気した秀吉は、織田信雄と徳川家康とも和解を行い、政治的にも戦闘的にも秀吉軍が譲歩します。この戦が後の徳川幕府創出の原因となった一戦でした。
2.家康の成功の本質
孫子の兵法書には「鋭気を避けて、その惰気を撃つ」と記述があります(戦い上手は、敵の士気が旺盛なうちは戦いを避け、士気の衰えた所を撃つとする孫子の教えです)。
この言葉、実践するのは非常に難しいもので、敵の鋭気を避けているうちに、見方も惰気となってしまうのが通例です。結果、惰気を避けるために合理性の無い精神論であっても受け入れざるを得ない状況が現れ、失敗に繋がる例が後を絶ちません。小牧・長久手の戦いにおける豊臣軍もそうですが、現代でも同様です。
業績が悪くリストラを続けている企業では、コスト削減を行います。この時、多くの会社は売上が低下し続けており、何らかの打開策を検討しております。ここで合理的な勝機が無い状況で積極策に打って出れば思わぬ失敗を招きます。過去の倒産事例を見ても、業績が傾いてきた企業が、充分な研究がなされない状況で新規に投資を行い、これが原因で倒産時期を早めてしまう事例が多いものです。そういう状況の時こそ、じっくり勝機を待つ気構えが必要なのです。