第14話 北条早雲に学ぶ
1.北条早雲とは
鎌倉執権北条氏とは何の関係も無い人物であり、早雲と呼ばれたのは彼の死後のことである。
彼の元の名は『伊勢新九郎』、室町幕府の中枢を参与する伊勢氏の一族で、自身、幕府申次衆の一人として将軍に仕えていた、という見解は一応定説と見なされてきている。妹は、北川殿と言い、駿河国の守護今川義忠に嫁いだ。
妹の夫である今川義忠が幕府の要請で遠江に遠征中、一揆の流れ矢に当たって不慮の戦死を遂げたことが彼の人生を大きく変えていく。
今川家に家督争いが生じ、故・義忠の子、すなわち北川殿の生んだ竜王丸と故・義忠の従兄弟・小鹿範満の家督争いとなった。家臣を二分して、各地で紛争が続発し、領内の政局にも影響を及ぼす事になった。早雲が「義忠の子・竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案で、この内紛を収めた。 しかし、竜王丸が17歳に成っても、小鹿範満は家督を譲らなかった。早雲の妹・北川殿は以前の約束が反故になるのを恐れて、早雲を京から呼び戻した。早雲は密かに駿府に戻り小鹿範満を駿府今川館で急襲した。小鹿範満は討たれ、竜王丸は実力で当主の座に座った。竜王丸は元服して今川氏親を名乗り、今川氏は守護大名から戦国大名に転化していく。 早雲はこの恩賞として駿河国駿東郡の興国寺城を与えられて、氏親の後見人として駿河に残った。この時早雲五六歳。当時からすれば既に隠居生活しているような老齢だが、早雲の場合はこれから第二の人生が始まる。
早雲はこの時に領民に慕われる領地経営を営むが、近隣諸国は領民の怨嗟の声が充満していた。早雲はここを治すべく立ち上がり、85歳までに相模全域を支配し、豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代にわたって存続する北条氏の礎を築いた。
2.北条早雲が掲げたテーマ
北条早雲が掲げたテーマは、領民に慕われる領主になるということでした。
当初興国寺城を与えられて後見人として駿河に残った時に、早雲は他のどの地よりも年貢を安く設定します。自分は領主の柄では無いと考えて始めた試みかもしれませんが、これが早雲の心に火を付けます。早雲はこの時期大いに貧乏しましたが、領民は大喜びし、大変懐きました。噂を聞きつけ移転してくる農民も大勢いました。領民との間に一体感が生まれたのです。この時早雲は閃きます。「もっと広い領地があれば同じような年貢で十分にやって行ける筈だ」と。
これを長い年月をかけて実行に移します。早雲の果てしない賭けは、56歳で興国寺城を手にしてから、85歳に相模一国を支配するまで続きます。この間29年の歳月をかけましたが、領民を大事にしていくのだという大義名分がぶれることなく領民に浸透し、北条氏は皆に慕われていきます。
3.経営者早雲から学びたいこと
北条早雲は、現代におけるベンチャー企業の社長に例えることが出来ます。 現代におけるホリエモンのM&Aのように、時代の変化(当時は守護大名の支配が崩れかけてくる予兆の時代でした)を明敏に捉え、着実に実行をしていきます。
早雲の居た時代も現代もこの原理は変わっていないものです。人々の願いを着実に実行していくこと、そこに熱意を込めて実行できれば成功は間違いないのです。