第24話 徳川家康(その2)
1.三方ケ原の戦い
野戦で名を馳せた徳川家康が野戦で大敗した唯一の戦いです。 徳川家康 元亀三年(1572年)1月25日、京都へ上洛途中の武田信玄の軍勢約2万5000と徳川家康の軍勢約1万1000(うち織田信長の援軍・約3000)が三方ヶ原で激突しました。
この戦いの前から信玄は徳川領内を荒らしておりましたが、徳川軍は数的に不利な状況にあり、徳川に味方する諸城を蹂躙する武田信玄に際し、何らの手立てなく日々を送っていました。家康は、この状況に際し、織田信長に再三援軍の要請をしますが、同盟軍の信長は転戦で応援が出せず、信玄の為すがままに領内が荒らされておりました。
三方ヶ原の戦いは、このような武田対徳川のやり取りの後に、信玄が京都へ上洛を目指して浜松を通り過ぎる際に起こりました。武田軍京都上洛を目指し発進の報を受けた信長は、上洛途上にある家康の居城浜松に援軍を送ります。ところがここでも援軍は佐久間信盛を大将とする3,000人に過ぎず、武田軍に対して数的有利に立つほどの援軍ではありませんでした。
浜松の居城にて家康は数的不利な状況の中、籠城を決定しますが、信玄は浜松城を無視します。武田軍は悠々と浜松城の前を通り過ぎていきます。あたかも家康など眼中に無いぞと言わんばかりの行軍でした。ここで家康は野戦による決戦を決定し、三方ヶ原において信玄に挑み、大敗しました。
2.家康の意思決定
ここで家康の意思決定を考えてみます。誰も味方が1万1000人しかいないのに、2万5000人の相手に戦いを挑む人はいません。しかも相手は野戦の名手、川中島の戦いで名を馳せている武田信玄です。義兄弟の信長から派遣されている佐久間信盛はあくまで、戦わないように説きます。家康は十中八九負ける戦に敢えて挑みました。
徳川家中の雰囲気が家康の腰をあげさせ、この意思決定がなされました。信玄の為すがままにされていては、家康は腰抜けです。策も無く、味方を見殺しにし、自分だけが命が惜しいためにずっと籠城していたと言われては、徳川に味方する武将がいなくなってしまうのです。これが痛いほどわかっていた家康は進軍します。運よく命は助かりましたが、敗軍の中、糞を垂らしながら馬に乗って帰ってきたというエピソードも残されているくらい、凄惨な負け方であったようです。
3.家康に学ぶ
関が原の戦いの時、家康は野戦の名手として名が轟いていました。そのきっかけとなったのは、三方ヶ原での勇気ある行動であったのは言うまでもありません。味方のムードを察知し、負ける戦を敢えて仕掛けた意思決定は、我々がリーダーシップを考える際に学ばなければならない行動です。
関が原の戦いの前夜、鳥居元忠を伏見城に残す際、語った言葉は「私のために死んでくれ」だと言われています。徳川家康の強力なリーダーシップの存在が垣間見えるエピソードです。